語るに足らぬGW

 

 

どうも、「コロナ世代」の新社会人です。

 

今年のGWは何もしなかった。それまでは毎年アルバイトをしたり、サークルで遊んだりすることがあったような気がする。よく覚えていないけれど。

 

STAY HOMEを掲げている政府の思いと、コロナによって騒がしい報道のせいですっかり滅入ってしまった僕の考えが一致し、このGWは2日ほどしか外に出てない。

 

と言ってもそもそも出勤もかれこれ1ヶ月してないから、僕の中のGWがいつから始まったかなんてあまり分かっていない。

 

 

美容室に行った。緊急事態宣言が終わったらてっきり出勤するものだと思っていた僕は、美容室を予約していた。するとその翌日に宣言が延長された。まだ在宅なのかという鬱々とした気持ちが芽生えたが、それが美容室に行かない理由にもなるかといえば、その通りではない。人に会わないからと言ってみすぼらしい格好をしてると、本当にみすぼらしい人間になってしまうのではという恐ろしさが心の中にある。

 

 

ついでに河川敷を目的もなくふらふらと歩いた。本当に目的のない、無為な時間だった。何かを目に焼き付けるでもなく、一緒に歩く女の子ともこの先何かがあるわけでもない。ただ目の前に広がる景色を見て、「野球してる」「あれはラジコン?」「自転車って速い」と呟くだけだった。

途中2人でベンチに座り、僕はアイスコーヒー、彼女はラムレーズンのアイスクリームを食べていた。僕はラムレーズンに対しては、食わず嫌いなところがあった。レーズンにあまり良い思い出がない為だった。給食って罪だ。

彼女が、僕にそのアイスを食べさせてくれた。僕は合計で4口食べた。レーズンもしっかりと噛んで食べた。最後まで苦手だと言い出せなかった。まだ食の好みの違いだから良かったと思ったときに、彼女と共にいる未来が予測できると共に脱力感を感じた。それは退屈とよく似たものだった。

 

あとはスーパーに行った。冷凍しやすい野菜をたくさん買った。肉を少し買い、冷凍のエビを買った。店員さんには頭が下がる。

 

UberEatsでサグマトンを注文した。つい先日まで名前も知らなかったものを、自宅で食べられることに素直に感動した。

 

 

あとはひたすらにZoomを始めとするビデオ通話だった。

会社の同期や様々な関係性の友人達と会話をした。Zoomをすることによって会いたいと思う間柄が本当の友達なのか、という恐ろしい考えが頭に浮かんですぐに消した。それじゃ僕の友達が少なすぎるよ、なんて思った。

 

地元の友達とは一度もしなかった。なぜだろうかと考えた。どこか照れ臭さを僕は感じて自分から実行には移せなかったという考えに落ち着いた。しかし、もしかしたら僕のそんな考えは外れていて、田舎はオンラインが通用する社会の構造を成してないのではないかとも思った。匿名の人間として関わるには田舎は狭すぎる。東京にはそんな、名前のない人間がたくさんいて、僕もその1人で、そんな人間が生きやすい場所だった。オンラインとオフライン、そしてそれぞれの人格の分別は、都市でこそ浮かび上がるものなのではないだろうか、なんて。

 

 

この話、今考えながら書いてるけど、一考の余地ありだね。新しい時代の社会学みたいでかっこいいじゃん。

 

 

「一番単純に面白い小説が読みたければ、本屋大賞を読め」という通説に従って、本屋大賞受賞作品を読んだ。

 

天地明察(上) (角川文庫)

天地明察(上) (角川文庫)

  • 作者:冲方 丁
  • 発売日: 2012/05/18
  • メディア: 文庫
 

 

算術にも暦法にも星にも疎い僕が読んでもシンプルにワクワクさせられる本だった。面白いという言葉しか出てこなかった。

どんな小説でも映画でも、そこからテーマやメッセージを受け取ろうと身構えると疲れる。その中でこのような小説がもっと増えてほしいと思う。

 

 

GWはこんな感じだった。本当に退屈だったという思いが残った。もうこんなのは懲り懲りだ。遊びに行く/行かないの選択肢が与えられる日をいまかと心待ちにしている。そのときに疲れていたら、ぼくは退屈に飛びつこう。そんな選択できる社会が(再び?)形成されることを願う。

 

巨大な社会の動きとは裏腹に、僕の心中は平穏だった。退屈に飽きて暴れることもなく、誰かを叩くこともなく、ラムレーズンも断れず。

 

退屈を平穏だと嘘つく心だけはここに捨てていこう。

 

カレーのルーは左側

 

 

カレーは様々なシチュエーションで美味しく食べられるから大好き。どこで食べても美味しい。

 

雀荘で出前を取って食べるカレーは、ぐちゃぐちゃに混ぜて食べると美味しい。安っぽさの中に、ギャンブルしてる瞬間が見出せる。負けてたら、普段より多く荒くかき混ぜてしまうのも一興。

 

茶店で食べる挽き肉の入ったカレーも美味しい。喫茶店の色味とカレーの色味がすごく合う。「カレーの時間」をすごく感じさせられる。おまけに最後にコーヒーまで出てくる。僕はブラックコーヒーが残念ながら飲めないけれど、ミルクを入れたまろやかな色が、穏やかに終わりを伝えてくれる。そこにアメリカンスピリットの黄色を添えるのがいつものスタイル。

 

食堂で友人と食べるカレーも美味しい。食堂のカレーには外れがほとんどない。四季の色合いを見ながら、変わらない味を食べるのが良い。テンプレートの人生を歩んでいる存在だと強く思わされて、それでいてこういった生き方が出来る人はそこまでいないんじゃないかと後から思える。その時に思い出すのはなんてことないカレーの味だったような気がする。

 

セックスした女の子が帰った夕方、まだ匂いの残る中で作るカレーも美味しい。具材が炒められ、煮込まれ、ルーを入れると、それまでのまどろみと、微かに身体に残った熱が姿をなくしていく。換気扇が湿っぽいセックスの後の匂いとカレーの匂いを吸い込む。1人でカレーと向き合うと、少しずつ自分が元の形を取り戻していき、ホッとする。

 

家族で食べるカレーも美味しい。リビングの扉を開けた瞬間に夕飯がカレーだと気づく。自分が作っていない料理にはまた違った美味しさがある。リビングに染み渡るような深い香りを残すカレーが、家族団欒の濃度を濃くさせる。

 

 

1人でカレーを作った。お肉を入れ損ねた。作ったら、その香りだけで満足して初日は食べられなかった。2日目に食べた。美味しかった。

 

 

モノクロの顔

 

 

風に飛ばされそうな帽子を慌てて手で押さえた時に、自分が今どこにいるかがわかった気がする。マスクとサングラスを付けて歩いていても不審者に思われないご時世だけど、1人で歩いているとその通りではないらしい。世の中には思った以上に「家族」という単位が多く存在することを社会人になって知らされた。そしてその真ん中には無垢な物体がニカニカ笑ってるけど、サングラスをかけている僕からしたら、黒く動く物体程度の扱いになる。サイズ感と両脇の眼差しで子供だと知ることが出来るけど、僕がそれを全く理解できない人間だったら、ペットと変わらぬ存在かもしれない。

 

 

出生に関する主義主張が最近僕の中に入り込み始めた。僕は生まれたこと自体は仕方がないと思ってる。そこに良いも悪いもない。そりゃ言ってしまえば、もっと都会で生まれたかったとか、もっと早く生まれたらよかった、とかある種尽きない問題ではあるけど、そのないものねだりは、今の自分自身を存在しないものへと変えてしまうから中々考えられないところがある。僕は自分の存在を蔑ろにして「ぼく'」を産み出すことができるほど自惚れてはいない。

 

 

山内マリコの「ここは退屈迎えに来て」を読んでいる。

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 

クソな小説だなと思ってる。田舎から都会に出てきた青年だけが読めばいいんじゃないかなと思ってる。空っぽだから読みやすい、ってことだけが唯一の取り柄だな。僕が地元を飛び出したのはそんな弱気だからってことだったのか、と思わされる。そんなはずはないのに。東京に幻想を抱くような人になってた事などない。どんな仕事をしても、どんなに私生活が輝こうと、僕はぼくから抜け出せないことなどわかっている。環境がぼくを変えることはない。また東京にせいぜいそんな力はない。東京で変わるのは、ネオンの熱気に蕩けて、浮腫んだ顔面を剥き出しにしている自分自身に対して笑える奴か、叩かれても笑っていられるような変態だけだ。僕は両者とも当てはまらない。自分自身で笑えないし、ブスは叩きたい。

 

 

変わっていく奴を見るのは楽しい。僕もその時代をかつて味わっていたから。もう歳を取ったから変われない。悲しいけどね。でも僕が変わったのは、あくまで僕自身の考え方によってのものだと思う。そしてその変化において東京は関係がなかった。もしかしたら新宿の宿泊8800円のラブホテルと、だいたい酒を飲んで値段の覚えていない柏のラブホテルだけは、僕を変えたかもしれないけれど。

 

 

ダサいこと言うけど、人を変えるのは愛だと思う。今になってようやく。やっぱりダサかった。この話やめます。

 

 

そうだな、ブスは叩かれるべき存在だ。ブスなんだから。でもブスなんてそうそういないし、僕はブスと絡むほど人生暇じゃない。もうすぐ地元の人たちは結婚ラッシュなんだろうな。仲の良かった高校の同級生の結婚式は行ってあげよう。愛を形にする場所は興味深いものがある。ただ、なんとなく一緒にいることが運命だと思い、共に死んでいく人を決める儀式の冷たさが、投げられるブーケまでを灰色に染め上げるのを、僕は見たいのだろうか?

 

見たいよね。

 

 

ASCII ART

 

 

***

 

 

全世界でコロナウイルスが大ブームだ。僕はほとんどニュースを見ない。サウナで垂れ流されている夕方の報道番組を見て、「クラスター」の意味をなんとなく知ったに過ぎない。

 

 

その分Twitterをよく見ている。しかし最近はSNSを見ることも減ってしまった。生きる上でSNSがあまり必要なものではないという思いを友人が少なくなってから思い始めている。

そりゃ友人が多い頃は必要だった。SNSという名の別世界と、現実の、肉体を有する世界の間の亀裂を無くして、自分自身の存在を他者と、そして自分自身も明確に測ることにおいて、この上なく便利なツールだった。

 

 

しかし最近はあまりにSNSで「人(にん)」を上乗せして言葉を吐き出す人が多い。140文字しかないにも関わらず、そこに見え隠れする「不器用な人間」のバックボーンが重すぎて吐きそうになる。僕はそこそこ器用に生きられる人間だから、不器用な人間が大嫌いだ。

 

 

生き方が下手なことを正当化する劣性種が最近のSNSでは強すぎる。まあそれは、何に関しても「不謹慎」と唱える輩が増えすぎたことが、一つの原因だと考えられる。こういう奴らも大嫌い。

 

 

こういった人は「不謹慎」を盾にして、自分に都合のいい仮想の世界を作り上げる。皆を同一化し、そぐわない意見を断罪する。不謹慎と「ネットリテラシー」の相性が最悪なことを知らずに、自分の見方を押し付ける。

 

 

加えてこのような人がそこそこ注目を浴びる世界がSNSには存在する。力の弱いもの同士が「1つの世界」を相手に、好き勝手に吠えることができる。「1つの世界」は何も言い返さない。強さと弱さを履き違えている、SNSを井戸端会議と勘違いした輩はますます力を持ち始める。井の中の蛙に過ぎないにも関わらず、だ。

 

 

僕は最近「時代の寵児」や「革命児」などと呼ばれる実業家の顔が本当に怖い。

21世紀に新しい価値観や考え方はそんなに生まれないと僕は思っている。しかし彼らは一つの価値観や考え方を提示し、それが多くの人に受け入れられている。その時に彼らを目を見ると、どうしても彼らから漏れ出る「生存本能」を強く感じる。僕が時折言う「生物学的強者」の雰囲気を醸し出している。

僕は世が世なら、彼らは犯罪者になり得たと思っている。そのくらい「生」への欲求が強い存在を見ると、僕はいわゆる「蛇に睨まれた蛙」である。

 

 

どうしてこんな話をしたかと言うと、今のSNSは、こういった革命児「もどき」が蔓延っているように感じるからである。コロナについてのツイートでも感じる面が多くある。

 

 

先日、親戚をコロナで亡くしたという人が呟いていて、その感染元が呟いた本人であった、というツイートを見た。

その人も書いてたけど、これは一種の「人殺し」であると僕も思っている。人を殺すことにおいて、自覚の有無は刑事罰に関しては大いに影響する一方で、倫理としては重要視されない。「人を殺した」という事実が、なにより中心の議題である為だろう(ここは人それぞれの考え方によるかな)。

 

 

僕は顔も出さず、いまだにのうのうと呟いていられる「人殺し」の意見など、参考にする気は毛頭ない。上記の呟きはその人の罪悪感の塊のゴミ捨て場であり、コロナに対する警告であったが、鼻を摘みたくなるような文言を並べられて本当に腹が立った。

 

 

まとまらなさそうだ。書き殴るようにスマホ画面を叩いているから仕方がない。

 

 

ニュースなんか見なくても、歴史を学べば大体事態の雰囲気は掴めると感じている。しかし、歴史も学ばず、おまけにリテラシーもない上に言葉だけ尖らせる人間が本当に怖い、というお話。

 

 

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あと、この流行病を前にして「ディストピアだ」とか言ってる人がいて、さすがに気持ち悪すぎて頭が痛くなった。

 

 

僕の見解だと、コロナの前からディストピアだったよ、と思います。

 

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曇り空が広がるフードコート

 

 

たいていの田舎は、女子高生を縛りつける。遊びたい盛りの精神と、今か今かと弾けるのを待つやくのような身体を持ってしても、決して外の世界を純な目では見られない。そして小汚いゲームセンターのイカ臭いプリクラを撮り続けるのだ。可哀想に。

 

 

その日々から生じるシミは取れない。だから年をとると田舎の女は貧乏臭くなる。僕の経験から言うと、そういう女の写真はくすんでるからすぐに分かる。見る人によってはそう見える。葉蔵みたいな感じ。分からない人はいつまで経っても分からないから諦めるべきだ。

 

 

***

 

人から好意を向けられたことに対して、その好意を敏感に察知し、その上で泳がせたり、猫のように飛びついたりすることは簡単に出来る。だけど、人の悪意に関してはなかなかうまく気付くことができない。鈍感なんじゃない。温室だったという方がピタリと当てはまる。

 

 

加えて好意をもって接する行動を喜びもしないのにされた挙句、心を弄ばれた。と考える人間が割に多い。「全人類主人公理論」を掲げるような人間がそうなりやすいように思える。それがすごく嫌いで、だからなのか僕は悪意を向けられやすい。

「弄ぶ」は興味深い言葉だ。弄ぶなんて言葉は弄ばれた側しか使わない負け犬のセリフだよ。負け雌犬だよ。

 

 

僕は自分にめちゃくちゃ都合の良い考え方なので(決して主人公などとは思わないが)、弄んでいるのではなく、互いの最良の選択のヒントを与えていると考えている。加えて温室で伸び伸びと毒気に触れずに育ってきたから、そういったハートは好意を前にした時により汚れやすく、目立ちやすい。都会と田舎の空気が違うように。

そのため僕が人の好意や悪意を察知した瞬間、水の入ったコップに墨汁を入れるような、淡く緩やかに、しかし確実に汚れが広がっていく。「黒」と言う漢字が煤が詰まった様子を表すと知り、決して他人事とは思えなかった。

 

***

 

深みのある女はペガサスだ。実在しない。

 

それでも僕はヘテロセクシュアルだし、自認できる部分のセクシュアリティを見ても、圧倒的多数派だろうと思う。面倒くさがりだからセックスはそんなに好きじゃないけど、ヘテロロマンティックは、少し怖いなと感じる。そんなこと僕の周りが言ってたら、普通に笑いながら「カッコつけてんじゃないよ」って言ってしまう。

 

どちらかというと男が基本的に得意じゃない。

知ってる生き物だから、もういいかな、ってなる。ある程度知った結果それほど興味を引かれる存在じゃなかったから、深追いしない。

 

それならまだ、ラベルも剥がされた空のペットボトルみたいな女の方がいい。捨てられることを分かった上で人付き合いをすることを知ってるところだけは貧乏臭い女の良いところかもしれないな。

 

***

 

 

秋の日の女生徒の手から銀杏の香り

 

 

くしゃみを噛み殺す度に、雨粒を弾く屋根を思い出す。心地よくもこの流れがずっと続くのはよくないと心のどこかで思わされる。

 

花粉が飛び始めたと鼻や目が教えてくれた。春先の僕は醜いからあまり人に会いたくない。花粉が収まり、人々の気持ちがうわつき始める夏前。加えて梅雨に感じるいじらしさが、我儘な恋の衝動が実を結ばせるらしくらしく、頻繁にこの時期から恋がスタートする。可憐さと痛々しさは共存しか方法がなく、そんな姿は四季を終えた頃にはおおかた出し切るから、翌年の春にはお別れを迎えるのだけれど。

 

 

今年はお酒を飲む回数を格段に減らしている。安くて美味しいお酒なんかほとんどないし、なによりお酒を飲んだ以降、何かをしようと思えないし出来ない。この年齢にもなると潰れてヘラヘラ笑ってられる人間でもなくなってしまった。

 

僕は友達が少ないのだけれど、その事を好きな女の子に伝えたら「可哀想だ」と言われた。「可哀想な僕」とラベリングして、他人にトラジティを押し付けることは嫌いだけれど、女の子の発言には急激に心が冷えた。軽蔑しそうになって、女の子の好きなところを考えて思いとどまった。少し前のブログに「友達なんてそんなに有益なものじゃない」みたいなダサい強がりを書いてたけれど、友達に大事なのは人数じゃない事ぐらいははっきりと分かっている。こんな「朝が来れば夜が来る」みたいなこと言いたくないのにな。

だけどSNS世代ドンピシャの僕は、長文で相手を否定する事は、少なくともSNS上ではしない。SNSで長文なんて書く奴はオタクかまともじゃない奴しかいないし、オタクもまともじゃない。

「そんなこと言わないでよ、辛いじゃん」

的な事をヘラヘラ返して、また1人になった。

 

 

冒頭の話に戻ると、花粉が飛散しているせいで、最近の僕は基本的に気分が重い。その少し前は寒くて気分が上がらなかった。冬の風は目に見えないのに悲しさを感じさせる。傷つけたくないものを傷付けている二面性を感じる。そんな事、傷つけられてる僕自身は知らないこと。だから嫌いだ。加えて今年は女の子と手も繋げなかった。スプーンもフォークもあるのになぜ料理が出てこないのだろう。

 

 

何書いても面白くない。「日々に刺激が欲しい」とか僕が言い出したら殺して欲しい。だけど物語で使われないような1日を、毎日過ごしているのも、それはそれで面白くない。痛くないように生きる事は不可能なので、せめて痛くないように殺してほしい。

 

 

 

最近の自分

 

 

最近、死んでいっている気がする。比喩じゃなく。如何にもこうにもやる気が起きない理由は分かってる。自分自身が世の中の流れについていけず、そうするためのモチベーションも失っているから。

 

 

インターネットの発達が凄まじい。それによってサービスの進化も止まらない。対して僕はといえば、いまだに現金を持っていないと不安だし、何かをするには自分自身がそれ相応の対価を支払い、身体を使わなければならないという考え方が抜けない。この前「インフルエンザに罹った時は、Ubereatsを使えば全て解決だよね」と言っている話を聞いた時に、目から鱗だった。

 

 

東京に住んでいながら、その恩恵をあまり受けていないのが実情。でも九州の田舎である地元にはなかなか帰りたくない。

この前友人が焚き火パーティーをしている様子がInstagramに上がっていた。てか焚き火パーティーってなんだよ。焚き火自体が割とパーティーだろ

「第一回焚き火パーティー開催します。これから恒例にしていきましょう!そしていずれはここに子供も呼びましょう!」

 

僕はその時に「ああ、この人たちはこの地で一生を終えるつもりなんだ」と思い、尊敬と恐怖が入り混じったよく分からない感情になった。自分たちの将来のレールがはっきりと見えることに良いも悪いも心が動かされてしまった。でも何より大きな感情は、この先に無限の可能性という幻想を抱いている、自分自身の弱さに気付かされた不甲斐なさだった。

 

どうせ大したことは僕の人生に待っていないし、初恋の鮮やかな喜びを上回るものはもう2度と訪れないことがはっきりと分かっている。こうなると、どうして生きているのかと考えてしまう。でも何故生きるかという問いには、自分の中で一つの答えを持っているから、結局壁に当たってしまう。

 

 

こういうメンタルの時って、不意に黒歴史を思い出してしまうのはあるあるですかね。それで負のスパイラルに嵌ってしまうという。

 

 

加えて最近は忙殺気味である。元来マルチタスクが出来ない人間にも関わらず、同時に複数のことを進行させられる人間への憧れが消せない。そのせいで頭がパンクしそうになり、現実逃避ばかりしてる。このブログもそうだ。これを書いてる暇があるなら、興味もない香港デモのレポート書けよって話なんだよ。

 

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頻繁に連絡を取り合う女の子が、突如ラインのアカウントを消した。その後の新しいアカウントの最初の文面がこれ。

 

羨ましかった。アカウントを消した理由が「人と連絡取り合うの疲れた」。羨ましかった。他人との距離感なんて自分が寂しくないという一点だけで調整するべきものだと思う。他人への配慮はしたければすればいい。僕は弱くて情けないから、他人への配慮を頑張る。でも弱くて情けないから「配慮している感」がバレてしまう。気を遣っている感が出るともう「友達ゲーム」は終わり。僕の負け。

 

 

珍しく情けないことをたくさん書いた。高慢と小胆が同居している人間になんかなりたくなかった。自分と向き合うつもりもないのに、自分のことばかり中途半端に考える人間になりたくなかった。汚いものを見ても、毅然として綺麗に生きられる人間になりたかった。

 

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こうでも書いておかないと、自分の弱さを見ないまま、大きな問題に直面しそうだったので。目を汚したのは申し訳ない。

 

 

最近、村田沙耶香の『消滅世界』を読んでる。

 

消滅世界 (河出文庫)

消滅世界 (河出文庫)

 

 

人工授精が一般化し、夫婦での営みが「近親相姦」と言われるようになった日本が舞台になっている。愛とか温かみとかを求めていながら、くだらないとも思う自分に針をチクリと刺すような小説になっていて、なかなか読むのが億劫になる。

 

 

ふと思ったけど、今日書いてること、ずっとアンビバレントなことだな。それならまだ迷ってていいや。お疲れ。以上。