モノクロの顔

 

 

風に飛ばされそうな帽子を慌てて手で押さえた時に、自分が今どこにいるかがわかった気がする。マスクとサングラスを付けて歩いていても不審者に思われないご時世だけど、1人で歩いているとその通りではないらしい。世の中には思った以上に「家族」という単位が多く存在することを社会人になって知らされた。そしてその真ん中には無垢な物体がニカニカ笑ってるけど、サングラスをかけている僕からしたら、黒く動く物体程度の扱いになる。サイズ感と両脇の眼差しで子供だと知ることが出来るけど、僕がそれを全く理解できない人間だったら、ペットと変わらぬ存在かもしれない。

 

 

出生に関する主義主張が最近僕の中に入り込み始めた。僕は生まれたこと自体は仕方がないと思ってる。そこに良いも悪いもない。そりゃ言ってしまえば、もっと都会で生まれたかったとか、もっと早く生まれたらよかった、とかある種尽きない問題ではあるけど、そのないものねだりは、今の自分自身を存在しないものへと変えてしまうから中々考えられないところがある。僕は自分の存在を蔑ろにして「ぼく'」を産み出すことができるほど自惚れてはいない。

 

 

山内マリコの「ここは退屈迎えに来て」を読んでいる。

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 

クソな小説だなと思ってる。田舎から都会に出てきた青年だけが読めばいいんじゃないかなと思ってる。空っぽだから読みやすい、ってことだけが唯一の取り柄だな。僕が地元を飛び出したのはそんな弱気だからってことだったのか、と思わされる。そんなはずはないのに。東京に幻想を抱くような人になってた事などない。どんな仕事をしても、どんなに私生活が輝こうと、僕はぼくから抜け出せないことなどわかっている。環境がぼくを変えることはない。また東京にせいぜいそんな力はない。東京で変わるのは、ネオンの熱気に蕩けて、浮腫んだ顔面を剥き出しにしている自分自身に対して笑える奴か、叩かれても笑っていられるような変態だけだ。僕は両者とも当てはまらない。自分自身で笑えないし、ブスは叩きたい。

 

 

変わっていく奴を見るのは楽しい。僕もその時代をかつて味わっていたから。もう歳を取ったから変われない。悲しいけどね。でも僕が変わったのは、あくまで僕自身の考え方によってのものだと思う。そしてその変化において東京は関係がなかった。もしかしたら新宿の宿泊8800円のラブホテルと、だいたい酒を飲んで値段の覚えていない柏のラブホテルだけは、僕を変えたかもしれないけれど。

 

 

ダサいこと言うけど、人を変えるのは愛だと思う。今になってようやく。やっぱりダサかった。この話やめます。

 

 

そうだな、ブスは叩かれるべき存在だ。ブスなんだから。でもブスなんてそうそういないし、僕はブスと絡むほど人生暇じゃない。もうすぐ地元の人たちは結婚ラッシュなんだろうな。仲の良かった高校の同級生の結婚式は行ってあげよう。愛を形にする場所は興味深いものがある。ただ、なんとなく一緒にいることが運命だと思い、共に死んでいく人を決める儀式の冷たさが、投げられるブーケまでを灰色に染め上げるのを、僕は見たいのだろうか?

 

見たいよね。