最近の自分

 

 

最近、死んでいっている気がする。比喩じゃなく。如何にもこうにもやる気が起きない理由は分かってる。自分自身が世の中の流れについていけず、そうするためのモチベーションも失っているから。

 

 

インターネットの発達が凄まじい。それによってサービスの進化も止まらない。対して僕はといえば、いまだに現金を持っていないと不安だし、何かをするには自分自身がそれ相応の対価を支払い、身体を使わなければならないという考え方が抜けない。この前「インフルエンザに罹った時は、Ubereatsを使えば全て解決だよね」と言っている話を聞いた時に、目から鱗だった。

 

 

東京に住んでいながら、その恩恵をあまり受けていないのが実情。でも九州の田舎である地元にはなかなか帰りたくない。

この前友人が焚き火パーティーをしている様子がInstagramに上がっていた。てか焚き火パーティーってなんだよ。焚き火自体が割とパーティーだろ

「第一回焚き火パーティー開催します。これから恒例にしていきましょう!そしていずれはここに子供も呼びましょう!」

 

僕はその時に「ああ、この人たちはこの地で一生を終えるつもりなんだ」と思い、尊敬と恐怖が入り混じったよく分からない感情になった。自分たちの将来のレールがはっきりと見えることに良いも悪いも心が動かされてしまった。でも何より大きな感情は、この先に無限の可能性という幻想を抱いている、自分自身の弱さに気付かされた不甲斐なさだった。

 

どうせ大したことは僕の人生に待っていないし、初恋の鮮やかな喜びを上回るものはもう2度と訪れないことがはっきりと分かっている。こうなると、どうして生きているのかと考えてしまう。でも何故生きるかという問いには、自分の中で一つの答えを持っているから、結局壁に当たってしまう。

 

 

こういうメンタルの時って、不意に黒歴史を思い出してしまうのはあるあるですかね。それで負のスパイラルに嵌ってしまうという。

 

 

加えて最近は忙殺気味である。元来マルチタスクが出来ない人間にも関わらず、同時に複数のことを進行させられる人間への憧れが消せない。そのせいで頭がパンクしそうになり、現実逃避ばかりしてる。このブログもそうだ。これを書いてる暇があるなら、興味もない香港デモのレポート書けよって話なんだよ。

 

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頻繁に連絡を取り合う女の子が、突如ラインのアカウントを消した。その後の新しいアカウントの最初の文面がこれ。

 

羨ましかった。アカウントを消した理由が「人と連絡取り合うの疲れた」。羨ましかった。他人との距離感なんて自分が寂しくないという一点だけで調整するべきものだと思う。他人への配慮はしたければすればいい。僕は弱くて情けないから、他人への配慮を頑張る。でも弱くて情けないから「配慮している感」がバレてしまう。気を遣っている感が出るともう「友達ゲーム」は終わり。僕の負け。

 

 

珍しく情けないことをたくさん書いた。高慢と小胆が同居している人間になんかなりたくなかった。自分と向き合うつもりもないのに、自分のことばかり中途半端に考える人間になりたくなかった。汚いものを見ても、毅然として綺麗に生きられる人間になりたかった。

 

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こうでも書いておかないと、自分の弱さを見ないまま、大きな問題に直面しそうだったので。目を汚したのは申し訳ない。

 

 

最近、村田沙耶香の『消滅世界』を読んでる。

 

消滅世界 (河出文庫)

消滅世界 (河出文庫)

 

 

人工授精が一般化し、夫婦での営みが「近親相姦」と言われるようになった日本が舞台になっている。愛とか温かみとかを求めていながら、くだらないとも思う自分に針をチクリと刺すような小説になっていて、なかなか読むのが億劫になる。

 

 

ふと思ったけど、今日書いてること、ずっとアンビバレントなことだな。それならまだ迷ってていいや。お疲れ。以上。