セミ人間

 

 

僕が人間がそもそも胡散臭いせいで、胡散臭い人間が嫌いなのです。

でも僕は割と客観的に見た時に頭が良いと思われがちなので、胡散臭さがバレてないと思っているのですが(???)。

↑↑(ここで下書きが終わってた)

こんなこと書いてる人間が胡散臭くないわけないので。

 

 

なんで今回のブログを「胡散臭さ」というテーマで始めたかというと、先日の池袋の殺人事件のニュースに心を動かされてしまったからです。

 

この問題を通じて、世間というものの身勝手さや愚かさが浮き彫りになったように思えて仕方がないのです。

 

池袋の殺人事件ってのはラブホテルで女性が殺された、そして大学生の男性が逮捕されたというのが概要です。

女性と10歳以上差が離れていることや、ラブホテルという場所柄、少なからず世間の耳目を集める事件にはなりました。

 

今回の事件を受けて、自分自身の浅薄さに恐ろしささえ感じました。

今まで誰かを「殺してしまいたい」と思うほど憎んだことのない人生を生きてきていることを、同世代が起こした事件によって浮き彫りにされてしまったのです。

そしてこの心というのは、幾ら本を読み、人と会話をし、勉強をしたとしても、到底一生のうちには見つけられないということ、深いところで濁った心を見ずに生きていく自分自身が、情けなく思えてきて仕方がなかったのです。

 

そしてそれと同時に、状況証拠によって想像しやすい物語を勝手に作り上げ笑い物に仕立て上げる世間、ひいては作り物の物語をでっち上げることによって心情を慮ろうと考える私自身に気持ち悪さを感じ得なかったのです。

所詮僕らには、何があろうとも、彼の気持ちというのは本心から理解はできないのです。同世代である私自身も理解できなかったのですから。

 

誰かを殺したいと思うほど強烈な情念を持ち合わせない僕は、果たして「まともな人間」なのだろうかと考えていました。

そう考えた時に世間の人は皆「悪人」であるという考え方を思い出し、僕は安堵に包まれました。

 

僕も悪人なのだから、人の気持ちなんて理解できるわけない。

お疲れ様でした。

 

殺人に対して肯定的な意見を出したように読み取られてしまうと非常に困ります。生きている時間なんて強烈な一瞬なのだから、その瞬間を奪う権利は何人たりともないはずです。

ただ分かったようなふりをする世間、その世間の一部である私自身を見つめなおさせられたというお話です。