人非ざるモノが跳梁跋扈、京都。

 

先月京都に行った。好きなアーティストの東京公演を取り逃がして、代わりに取ったのが京都だった。そのついでに観光でもしようという算段だ。

 


折坂悠太 - 抱擁 / 櫂 (Official Music Video) / Yuta Orisaka - Houyo / Kai

 

旅前、京都という街に僕は概ね好印象だった。「侘び寂び」を重んじる文化的姿勢は、僕自身の心にも取り込むべき大事なことだと思っている。歴史的遺産の多い街を聴くと、どうしても日本史オタクだった高校時代の血が騒ぐ。

 

京都人は「奥ゆかしさ」を持っているという一方で、嫌味ったらしいというイメージも付いてくる。「お高い時計付けていらっしゃいますね」が「帰れ」という意訳になってるなんてのも最近聞いた。どうやらこの嫌味な言い回しや、腹心を見せない所が大阪人は嫌いらしい。

 

「だろうな」としか思わない。

 

僕は断然京都人のマインドなので、大阪人の喋り方には怖さを感じてしまう。どこか言葉に棘や圧力を感じる大阪弁(存在するのか?)は中々に苦手なのかもしれない(大阪の人ごめんね)。

 

話は旅行日前日へと遡る。

この日は内定式が行われた。日付がバレてしまうが気にしない。式自体は中々に退屈なモノだった。偉い人が「4月までたくさん遊びな」と言っていたことくらいしか覚えてない。任せてくれ、お偉いさん。バッチリ遊んでくるよ。

その後の懇親会では同期との仲をそこそこ深めた。お酒も出てくるのだが、夜行バスで京都に向かう身、控えめにしなければならないことは不本意だったが。

 

飲み会を途中離脱して帰宅し、急いで新宿バスタへ。現実から逃げるようだった。逃げる時は大体北なんだけどなと少し笑えるくらいには上機嫌だった。乗り場一回間違えたけど。

 

 

夜行バスで語るような出来事は起こらない。SAに着くたびに煙草吸ってたらあんまり寝れなかったことくらいかな。

 

バス降りてからもとりあえず喫煙所を探した。京都駅に着いた。目の前に京都タワー。余りのショボさに驚いた。電波塔としての役目のみを全うして、外観等他の要素を捨てるスタイル。ある種あるべき姿がそこに有った。

 

今回の旅行で決めていたことがひとつだけあった。「イヤホンを付けない」だった。東京の友人がついにいなくなってしまって、生活は急速に彩りをなくした。「(袋)大丈夫です」「(レシート)いりません」しか声に出さない1日を当たり前に過ごしている。最近は「LINE Payで」が追加された。

そんな僕の自己防衛がイヤホンだった。主にラジオのTF。聞き飽きたらSpotify移行。常にイヤホンが欠かせない。前髪と同じくらい大事な存在だと思っている。生きてることへの恥を隠さなければいけない。

だけど京都は僕のことを知らない。僕も京都を知らないからだ。ならば五感で味わなければならない。見知らぬ人の会話は、余所者には有難いものとなる。観光客が観光客である為には。

 

朝食のおばんざいは良かった。やはり朝から白米と味噌汁、野菜を食べられる生活はいつでも出来るようにしておくべきだと思った。それが幸せでありそれで充分だ。

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僕と同様、これから京都を散策するであろう若者の姿を散見した。彼らの旅行にも幸あれ、とどこかで見ている八百万の誰かへの媚も含めた温かい気持ちが生まれる、そんな朝食だった。

 

続いて銀閣寺。

哲学の道は中々歩きづらい。「思索にふけながら歩くこと」を意識して歩くのは小っ恥ずかしいモノがあった。その結果、腕を後ろに組んで悠然に歩く、さながら咲いてもいない花を眺める滑稽な老人のような振る舞いになってしまった。道中ランドセルを背負った小学生とすれ違う。非日常に存在する事を教えてくれた小学生に感謝。また煙草を吸った。

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「大人になれば金閣より銀閣の方が良く見えるよ」という聞き飽きたセリフ。「侘び」の美学において龍安寺と並び語られる慈照寺は、満ち足りない気持ちを抑えて生きる事を余儀なくされる大人が、自分自身の自由を抑圧する為の言葉のようにも聞こえてくる。僕は金閣寺信者な所があるので鼻で笑っていた。中学の修学旅行で訪れたのかどうかも覚えてない程、僕の中で銀閣の存在は大きくなかった。

 

結論からすると非常に良かった。室町幕府8代将軍の足利義持は、苔を非常に愛していたそうで、至る所にきれいに整えられた苔を見ることが出来た。修学旅行を引率するガイドが言っていた。興味なさそうに頷く中学生の背後で、誰より真剣に話を聞く成人男性。

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銀閣については特に語る所はなかった。庭園としての素晴らしさに心を打たれた。まだまだ僕は不足が満足できないらしい。「大人になんかならなくていい」という言葉は、大人にしか言われないのだ。

修学旅行生の眩しさがメンタルを抉る。慈照寺は傾斜のある道が続く。女子を心配する男子。「全然大丈夫だし」と強がる女子。意地になって「じゃあ急げよ」なんて言っちゃう男子。

諸君、その瞬間はもう二度とないよ。

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ああ、語り忘れた。僕の趣味に御朱印巡りなんてモノがあります。何ぞや?って人はググってくれ。簡単に言うと、参拝記念にスタンプ押してくれるもの。

 

やはり行った記念というものをカタチとして残せるのは嬉しい。加えて数百円ではあるが奉納することでこれからも文化というものを繋いでいってほしいなという思いもある。

今回の旅行は行く先々の神社や寺院で御朱印を戴いている。無論参拝もしてる。神様に願いを叶えてもらおうなんて甘い考えはとっくに捨てている。日頃の感謝を伝える場としている。「生」を未だ感じられていることが主。だから荒稼ぎなんて言わないでほしいな。

 

次は南禅寺鎌倉五山の更に上。別格。もうカッコいい。

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圧倒的大きさ。さすが別格。中は全貌の撮影できる大きさじゃなかった。写真がない。まだまだ味わわなければならない。


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有名な水路閣。「そうだ、京都へ行こう」にも使われたスポット。蹴上駅から降りて向かう道中にあったトンネルといい、煉瓦造りの建築物が近代化を物語っているらしい。これも盗み聞きガイド情報。

 

碑文に書いてあったが、南禅寺に入ると涼しいらしい。10月とはいえ京都は中々蒸し暑かった。なぜ寺院に入るだけで涼しくなるのか。そんなはずないだろ、冗談も大概にしやがれ、なんて思っていた。入った。「涼しい」。完璧なフリオチ。これぞ関西。

 

ここはだらだらと散歩して終わり。下調べなしで行った事を後々後悔した。三門も上がらず、庭園もスルー。近くの湯豆腐屋の余りの高額さを驚く庶民性まで出してしまった。豆腐に1万出すのか……。

 

次の目的地平安神宮まで歩く。道中、橋を渡っている最中にセブンイレブンの看板を見つける。しかし肝心の建物が見つからない。京都の街で見つけたオモシロ珍百景だとテンションが上がった。そして気付いた。確かにセブンイレブンは存在していた。屋根が民家風になっていて気づかなかっただけだった。更にテンションが上がった。信号待ちの車を見た。京都ナンバーだった。もうニヤニヤが止まらない。

奥ゆかしいなんて嘘じゃないか、京都さん。そんなに矢継ぎ早に京都を突きつけないで下さいな。コンビニに到着し口元を隠した。勿論煙草で。

 

そして平安神宮に到着。昼過ぎになって途端に中国人観光客が増えてきた。参拝を済ませフラフラしていると平安神宮神苑を見つけた。庭園であり、広さは東京ドーム一個分、つまり東京ドーム散策である。

 

10月とはいえ紅葉はそこまで、それでも充分に楽しめた。緑の空気を充分に吸い込み、ここまですでに20km近く歩いていたが、疲れが吹き飛んだように思えた。

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三枚目の池には鴨や鯉などが泳いでいる。50円でパンを購入して餌をあげた。写真や動画は載せられない。人によってはグロテスクに感じてしまうような画だった。だけど僕はいつまでも見ていられた。丸々と太った鯉が太っている理由が分かった。さすが弱肉強食の本場こと動物界。カメラを構えて彼らに餌をあげる僕。『トゥルーマン・ショー』かと思った。彼らは一流の役者だった。

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まだ1日目の午後2時。まあ前日から語ってるからなんだけど。思ったより長くなった。

 

中編につづく