夜が明く

 

 

「人の気持ちを慮ることに疲れた」なんて言ってみると、「それまで考えていた感」が出て、優しさや脆さが、暗く汚い感情によって押し出されていったかのような、儚く無力な自分を演出できる。しかも容易に。

 

そう言う人に胡散臭さを感じないことがない。

 

 

君の発言が周りを勘繰らせる、そして気付かれてしまう、本当の君は人のことなんか考えてないだろう。

自分の心のキャパシティを勝手に決めて、吐き出せば助かると思ってる、いずれ暴かれるのに

と思う。

 

こうなったら後は「どちらが相手の事を想っているかを適切に言葉に出来るか」の戦いになる。

 

 

不毛な戦いを避けるため、ぼくは扇風機になりたいと想っている。

1年のうち、大半の時期に電源さえ入らない素晴らしい環境。人間の無防備な姿をログアウト状態でじーっと見つめる。

 

夏の間しか働かなくて済むのも良い。働きたくないからね。働かずにエネルギーを貰うことができる無機物って最高。人間であっても無機物のような、頭が空っぽな、その日その場のエネルギーを供給されるだけにはなりたくない。

 

 

与えられたものに喜ぶのは怖い。無形であれば尚更。有形の中に無形が無いかとは言わない。

こんな私も一応は日々考えることを生業としている。人間だから。それこそが人間の在るべき姿だと考えている。時には空想もする。自分自身を遥か別視点へ移動させることによって、人生をメタで見る。これはたまらなく楽しいが、それと同時に自分の無知を痛感させられる。

 

ならば結局楽しいことばかりじゃ無いかと言われれば、「そうである」と答える。

 

 

意外と私1人でも生きているだけで、楽しいことばかりなのかもしれない。人間で良かった。脳みそ万歳。

 

明日は脳みその姿煮を食べよう。なんて。

捨てずに食べよう。勿体ないから。