多様も一様も吐き棄てて

 

 

「人それぞれだから」なんていう人を、信用しちゃいけないのである。

 

なぜならその人たちのいう「人」とはあまりにズームされた矮小な世界の人々であり、その上、その人々の表立った「自分にも他人にも見せられる人格」のみを捉えているからです。ジョハリの窓で言うところの「開放の窓」に当たる場所。

 

 

 

世の中には、この窓の大きさがいびつな人が多い。それも人それぞれ。

 

開放の窓が大きな人もいれば、他者に知られていないが自認しているといった「秘密の扉」が大きな人もいる。

 

 

 

このようなブログを書き、自らの内面を着飾って書くような人間は、大抵自らに「秘密の扉」が多いように思っている。そしてそれをいくらか開放する、といったやや上から目線の心持ちではないかと考えている。

 

しかし心持ちや書かれた文の中には、自分には見えていないが他人には見られている「盲目の窓」や、自分にも他人にも見えていない「未知の窓」が溢れている。

 

時に「盲目の窓」は文章の中でおいては、あまりに雄弁な場合もある。考えなしに露出しては、ただの変態か、自己を見つめられない愚か者に成り下がる。

 

 

 

何も心理学の話をしたいわけじゃない。

「人それぞれ」という言葉が嫌いなだけである。

 

 

 

LGBTを初めとする性的少数者や、科学的根拠に基づき、前時代性を排した教育方針への理解が急速に深まり出した近年、「多様性」というものを、あたかも以前から人々の心の奥底の引き出しに入っていたかのように、皆が持ち出し始めた。初めは物珍しいものだったはずが、いつからかそれを身につけていない者が「下賤な人間」であると言わんばかりのアイテムと化していった。

 

そのアイテムとある種ぶつかり合うものが「道理」ではないかと考えている。

 

多様性に当てはめることで、「人を殺めても構わない」や「物を盗んでも構わない」などと言っているわけではない。それは道理的だけでなく倫理的にも正しくない可能性が高い。

 

あくまで、道理の本来の意味である「人間として行うべき正しい行為」についてを、少し解答のない問題に当てはめてみようと考えているだけである。

 

 

 

不倫に対する世間のバッシングが年々過熱さを増す一方、「ポリアモリー」という価値観が登場してきた。

 

簡単に説明すると、「複数のパートナーとの間で親密な関係を築くこと」である。とはいえ、「その関係性を夫婦が互いに明らかにする」という条件があってのものである。

 

これが乱婚やセックスフレンドとの明確な違いとなっている。しかし一夫一妻制(モノガミー)を法としている日本ではなかなか声を大にして言いづらいものであるのは容易に想像がつく。

 

 

 

主観ではあるが、不倫を叩くことに躍起になるような、昨今のSNSで散見される他者に厳しい人々は、ポリアモリーの価値観を頭ごなしに否定するのではないかと考えている。

 

これはその人の考え方が狭量であるからではない。その考え方自体が、画一的で「一億人が同じ考えをしている」と考えている人々の中では、ある種当たり前になっているからではないかと予想する。

 

あくまで主観である。これも一種の多様性である。怒らないでほしい。

 

 

 

問題は、理解できない価値観がこちらを覗いてきた時に、害虫を見たかのように叩く姿勢である。多様性を訴え始めた近年に限った問題ではない。何世紀経っても人は成長しないなと感じ、堪えられないものかと思う。

 

 

 

しかし全てを多様性で一括りにしてしまうこともあまりに諦念が過ぎるのではないかと感じる。その人間と彼らが作り出す社会は、却って色の無い世界になってしまうと言えるだろう。

 

だから僕の主観的な意見に怒っても構わないと考えている。また、ポリアモリーに対する僕の知識の誤りなどがあれば、是非注意してほしいと思っている。

 

 

 

こういった人々に手出し出来ることは、果たしてあるのだろうか。不可能である場合も非常に多いと思っている。所詮は人の心である。

 

 

しかし、ただ一つ言えることは何かにつけて判断をする際には知識と情報が不可欠であるということである。

 

多様性の中で誕生したものを、単体で見てしまう、それを単体だと思い込んでしまう恐ろしさに足を踏み入れることは避けたい。

 

自分がマジョリティであるかマイノリティであるかの判断までは自らの手で行えるようにならなければ、マイノリティとして散っていった人々に申し訳が立たない。

 

幸い学ぶ機会はそこら中に溢れている。インターネットというものは、僕程度が考える、その数十倍も有意義な箱である。

 

 

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があるが、これは何もかもを経験することが出来る現代人が忘れてはならないことかと思っている。経験を歴史にしていくのもまた現代人の一つの使命ではないかと思っている。

 

 

 

ものすごく堅苦しく、壮大になってしまったが、簡潔に述べると、「物事を受け入れるには、器量と知識を身につけることが必要」だということである。

 

それを放棄するものに、生きる資格は与えられない。しかし、日々を学びの連続であると捉えたならば、世界は彩りに満ちている。

 

 

「何者でもない」22歳男性が、自分に酔って生き方まで書いてしまった。

この文章に「盲目の窓」はどれほど開いてるのだろうか? それとも外は凪いでいるのだろうか?